初級
問題
有名な壁画「最後の晩餐」を描いたルネサンス期の芸術家は誰でしょう?
ヒント
この芸術家は「モナ・リザ」も描いたことで有名です。イタリア・ルネサンスを代表する多才な人物でした。
(答えはこの下にあります。)
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答えと解説
答えは「レオナルド・ダ・ヴィンチ」。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、ルネサンス時代の芸術家、科学者、発明家でもあり、幅広い才能を持っていました。「最後の晩餐」は彼の代表作のひとつで、イエスと12使徒を描いた壮大な壁画です。また、「モナ・リザ」は彼の最も有名な作品として世界的に知られています。
中級
問題
ルネサンス期において「天動説」を否定し、「地動説」を唱えた科学者は誰でしょうか?
ヒント
この人物はポーランド出身で、地球が太陽の周りを公転していると主張しました。この考えは、キリスト教会の教義に反するものとされ、当時の科学革命の基礎となりました。
(答えはこの下にあります。)
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答えと解説
答えは「ニコラウス・コペルニクス」。
コペルニクスは地動説を初めて体系的に提唱したルネサンス期の天文学者で、1543年に『天体の回転について』を発表しました。この書物では、地球が太陽の周りを公転しているとする画期的な宇宙観を述べ、従来の天動説に挑戦しました。コペルニクスの理論は後のガリレオやケプラーにも影響を与え、近代科学の発展に大きく貢献しました。
上級
問題
ルネサンス期の政治思想家であり、『君主論』を著して「目的のためには手段を選ばない」という現実主義的な政治観を提唱したのは誰でしょうか?
ヒント
この思想家はイタリアのフィレンツェ出身で、政治の実務経験を積んだ後、政治における権力の維持方法についての洞察を残しました。彼の名は、現実主義的かつ冷徹な政治手法を示す形容詞にもなっています。
(答えはこの下にあります。)
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答えと解説
答えは「ニッコロ・マキアヴェッリ」。
マキアヴェッリはルネサンス期のイタリアの政治思想家で、1513年に著した『君主論』で知られています。この書物では、君主が権力を維持するために必要とされる実践的な手段を冷徹に描き、道徳や宗教よりも現実的な判断を優先する姿勢が特徴です。「マキアヴェリズム」という言葉は、目的達成のために手段を選ばないという彼の現実主義的な政治思想から生まれました。彼の考えは当時の君主たちにも影響を与え、政治哲学に大きな足跡を残しました。
おまけ
問題
「ビザンツ帝国」の首都として知られるコンスタンティノープルは、現在のどの都市にあたるでしょうか?
ヒント
この都市は東西文化が交わる地として栄え、オスマン帝国の首都にもなりました。現在はトルコ最大の都市であり、アジアとヨーロッパを繋ぐ重要な位置にあります。
(答えはこの下にあります。)
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答えと解説
答えは「イスタンブール」。
コンスタンティノープルはかつてビザンツ帝国の首都として繁栄し、後にオスマン帝国の支配下でイスタンブールと改称されました。この都市は東西文化の融合地点として重要な役割を果たし、現在もトルコの経済や文化の中心地として活気に満ちています。また、イスタンブールには歴史的な建築物も多く、世界遺産に登録されている場所も数多く存在します。
もう一つ
問題
18世紀のヨーロッパで「プロイセンのフリードリヒ大王」として知られたフリードリヒ2世が、オーストリアとの間で繰り広げた戦争は何と呼ばれるでしょうか?
ヒント
この戦争は1740年代に始まり、当時のオーストリア女王マリア・テレジアの治世下で起こりました。プロイセンとオーストリアの間の領土争いが原因で、特にシュレージエンという地域の支配権を巡っていました。
(答えはこの下にあります。)
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答えと解説
答えは「オーストリア継承戦争」。
オーストリア継承戦争は、1740年にハプスブルク家のカール6世が男子を残さずに亡くなった後、娘のマリア・テレジアがオーストリア大公位を継承したことに端を発しました。フリードリヒ2世はこの混乱に乗じてシュレージエン地方を奪い、オーストリアと激しい戦争を繰り広げました。この戦争はヨーロッパ全土を巻き込み、最終的に1748年のアーヘンの和約で一旦終結しますが、シュレージエンはプロイセンに残ることとなり、フリードリヒ大王の軍事的名声を確立しました。